تسجيل الدخول私はそれを承諾した。 義両親も私の方の両親にも帰ってもらい、啓太さんには店の中の離れた場所で待っていてもらうことにして、康文さんと最後の会話をした。「……」 なかなか口火を切ろうとしない元夫に……「私のことをずっと待ってたって言ってくれましたが、ならどうして婚約者もいる身で既婚者と遊べるような若い女の子と浮気なんてしたんですか? 当事者の私が聞くのもなんですが……ふと疑問に思ったので」 衝撃が大きすぎて? 元夫は記憶を失くしたはずの妻がどうして仲間友紀とのことを知っているのか? ということには頭が回らないようで。「その通りだね。 魔が差したとしか言えない。 俺が愚かだったんだ。 まさか君が事故に遭って記憶を失くしてたなんて……バチがあたったんだな俺。 浮気をした俺を許してくれたのに、2度と仲間には会わないって約束しておきながら会い続けたんだから……。 だけどほんとにあの後、仲間友紀が君に会いに行く前には別れてたんだけどな。 事故に遭う直前の君はまだそのことを知らなかったわけだから、信じてもらうのは難しいかもだけど」と、当時を思い出したのかいろいろグチグチ言いながら元夫は泣き出した。『えっ? 泣くんかい?』 私はこんな場面で泣ける元夫に引いた。 この男の涙はどんな涙なんだろう? だけどあれね、仲間友紀が私に会いに来たことを元夫が知っていたとは。 私的に意外だった。 でも今となってはどうでもいい瑣末なことだ。 随分と年月が経ち、啓太さんとの幸せな生活があったせいか、元夫への憎しみも悲しみも今私の中にはない。 このことは幸いだと思った。 また私は元夫の悔恨の涙を見ながら、この人の元を離れるというチャンスを貰い、新たに愛する人までいただくことができたことは、あぁ、神様からいただいた恩寵なのだなぁと思えた。 元夫がほんとに別れたというあの仲間友紀は、その後どうしているのだろう。 とんでもない女だった。 今幸せに暮らしているのかどうか知らないけれど、いつか地獄に落ちるに違いない。 人の幸せを壊した人間なんて幸せになれるはずがないと思うから。 結局私とふたりきりで話がしたいと言った元夫とは、彼の泣き言を聞かされ、私がチクっと嫌味を込めた質問をひとつしただけで終わった。 泣い
「内ポケットに、あなたのサインと保証人のサインもちゃんと書き込んである離婚届けが入ってたんです。 もう私は神様にどんなにか感謝したことでしょう! こんなことってほんとにあるんですね。 そして私はその届けを持って役所に行き離婚届を出しました。 ですから、私と溝口はれっきとした正式な夫婦なんです」「そんな……」「お前、離婚届けを果歩さんに突き付けてたのか? 」 「ただの、脅しですよ……本気じゃなかった、ホンキジャ」 「馬鹿かお前は。 そんなもの脅しで妻に渡すようなものじゃないだろ。 けっきょくそれで自分の首を絞めたってわけだな。 もうお前にはどうにもできない。 今まで散々果歩さんを振り回し、苦しめてきたのだからな。 果歩さんの新しい生活を祝福してあげなさい。 お前にできるのはそれしかないさ」 そう義父が康文さんに助言してくれた。「酷いよなぁ~、俺は誰とも結婚しないで待ってたのに」 そんな皮肉な一言を今更言われましてもねえ~。 結婚して一緒に暮らしてた時に私一筋ならこうはならなかったというのに、私が居なくなった途端、清廉潔白妻一筋だったなんて言われても、なんかちゃんちゃらおかしいんですけど? 誰とも結婚してないぃ~? 私も母も知ってんのよ? あなたがあの仲間友紀とあの後すぐに暮らし始めてたこと。 どうやら話を聞いたところによると籍は入れてなかったみたいだけど。 実際私を待ってたなんて信じられないわ。たまたまでしょ? たまたま女性と縁が作れなかっただけ、たぶんね。「そういうことですので、お義父さん、お義母さん、すみません」「「いいのよ、康文のことは自業自得なんだから」」「気にせんでいいよ」 話は終わろうとしていたその時、康文さんが言った。 これで最後になるだろうから、果歩とふたりきりで話がしたいと。
「そんな! おかしいじゃないか! 碧を連れての記憶喪失なんだから、自分が既婚者だったのは分かってたはず。 夫がある身でそんなこと許されないだろ? それに籍が入ってる? 身元が分からないのにどうして入籍できんだよ」「記憶喪失者は籍を作って貰えるんです。 生きていくのに必要なものは、例えば住民票とかもね」「こうして、俺と再会したんだから、そんなの取り消し請求してやるよ」「そんなことしても無駄ですよ? 私記憶は戻ってませんがあなたがしていたことは、知ってますからね。 知ったからこそ思い切って溝口さんの胸に飛込めたんです」『あなたがしていたことを知ってますから』と言った時の元夫の表情ったらドキッとしたのだろう、ギョっとした風だった。「私、溝口とのことを考えるようになってからそう──あなたの言う通り夫だったあなたのことが気にかかるようになって、ちょくちょく事故に遭った近くのコンビニに行くようになりました。 誰か私を見知っている人に会えるんじゃないかと思って。 あれは事故から4年目のことでした。 もう駄目かもとあきらめた頃、私に声をかけてくれた人物がいたんです。 そしてその人とはかなり親しくしていたらしく、私があなたの女性関係で悩んでいたという話を聞きました。 その人はそれが原因で私が蒸発したんだと思ってたって言ってました。 そして私は溝口との結婚を強く意識するようになりました。 だけど、あなたと結婚している私が記憶を失くしていて、新しい戸籍があるとはいえ、重婚なんてすごく嫌でした。 不思議なもので、縁っていうか物事は転がる時には面白いほど転がっていくものなんだなぁと思うことがそのあとすぐに起きたんです。 事故に遭った時に着ていたコートは汚れて破れていたのですが、記憶が戻る手助けになるかもとか、記憶が戻った時のために、捨てずに取ってありました。 それが、その昔の知り合いに声をかけられて帰った日から2~3日後のことなのですが……。 懐かしい気持ちでそのコートを見ていたら、何気に今まで見てなかったコートの裏にわかりにくい内ポケットがあることに気付きました。 中を探ったら……奇跡が起こったんですよ」
「果歩、今でも全く俺や他の家族のこととか、過去の暮らしに関して 何も思い出せないのか? 」 「はい……なにも。すみません」「いや、しようがないよな、事故に遭ってそうなったんだし。 まぁアレだ。 だけどこうして俺と再会できたんだし少しずつでいいよ、一緒に暮らして いるうちに思い出せることもあるかもしれないし。 俺たち夫婦だったんだから戻ってくるよな? 」「ごめんなさい、それは無理です」 否定した私の言葉に……流石に義両親からも私の父親からも、ぎょっと したその場の雰囲気が伝わってきて心苦しかった。 だけど……どんなことがあってもこれだけは、これだけは譲れないもの、 絶対に。 これから元夫にどんな言葉で縋られたとしても、私の気持ちを 変えることは不可能だ。「どうして? その、え~と……言いにくいけど確かに俺は良い夫ではなかったからな。 だけどそういうのも記憶にないはずだし、なのに何で戻ることを そんなに簡単に拒絶するのか、さっぱり分からないなぁ~。 困った」 「実は私、助けて貰った溝口さんと結婚してるんです。 だから、この先あなたとの婚姻生活はできないんです」「ちょっと待ったぁ~! 」 元夫が興奮気味に大声で待ったをかけた。 だけどその声に強さはなく、最後の語尾は震えてひしゃげたような 声音で終わった。「それ、籍入れられないんだからただの事実婚だろ? 悪く取ると不貞になるんだぞ! 」『アンタがそれを言うか? 言えるのか?』 と私は胸のうちで呟いた。「ほんとっ、不貞、不倫、浮気、言い方いろいろですが、だらしない イメージが強いですよね? 」 私の確信犯的反撃に、脛に沢山の傷を持っている元夫は少したじろいた。 少しは昔の己の行動を反省するがいい。「私はそういうの、駄目っ。 他人に対しても許せないけれど、自分に対してもぜんぜんっ駄目です」「なら、どうして……」「私と溝口は籍も入れてる正式な夫婦です。 誰にも文句言われるような関係ではないんですよ? 」
元夫との話し合いの日を迎えた。 私は事故でずっと記憶を失くしたまま、という設定で話し合いに臨むことを決めていた。 啓太さんと母とも相談して3人でそういう結論に至った。 なので母には、元夫や私の父親、そして元夫の両親併せ今のいままで私とは行方不明のまま会えていないという設定で、立ち振る舞ってもらうことになっている。 碧は、一通りの話し合いで落ち着いた状況になってから、皆に会わせようということで、碧は話し合いの場には連れて来なかった。 そして啓太さんには今の夫というより、事故の時から大変お世話になっている恩人という立ち位置で、控えめに奥の方に陣取ってもらうことにした。 ちょっとした和食のお店の個室を借りて、再会と今後の話し合いが始められることとなった。 ひとまず揃った親族の前でどうしてこんな風になってしまったのか、というあらましを説明させてもらった。 まず意外なことに、私を見て父が涙を零した。 母は出てこない涙に四苦八苦しながら大泣きを装った。 『お母さん、上手くいってるわよ?』 「記憶が戻っていないので、思い出せないのですが、お2人にはご心配おかけしてすみませんでした。ほんとに、ごめんなさい」「しょうがないさ、大きな事故にあったんだから。 生きててくれて私はうれしいよ。 もう会えないかもしれないと諦めていたからなぁ。 よかった……よかった生きててくれて」「ほんと、果歩さん、私や主人もどんなにうれしいか。 こうやって生きてるあなたに会えて」と義母が言ってくれた。「康文があなたに心配かけてばかりだったからあの頃。 事故だってそのせいだったかもしれないわね。 心労が原因でついうっかり碧のことを忘れたんだよきっと。 康文とは果歩さんの行方が分からなくなってからも絶縁は続けていてね、私らは康文から果歩さんのことで連絡をもらうまで会ってもいないし、まして話などしてなかったんだがね。 今回息子の姿を見てまた情けなくなりましたよ。 ぜんぜんパリっとしてなくて、なんていうか侘しさ漂う中年というか」「親父ぃ……そんなぁ~」「まぁ、息子が今更どんな言い訳と贖罪と懇願をするのか想像もつかないが果歩さん、康文と今後のことを話し合ってみてやってくれますか」と親心を覗かせた義父の申し出を受けた。
不思議と何故かこの時まで届けを出すっていうことに思いが及ばなかったけれど、取っといてよかったよ。 これで晴れて私はシングル。 誰と恋愛しようと結婚しようと自由なのだ。 夫が本気で離婚しようと思って私に離婚届を出したわけじゃないことは明白で──そのあとこの話を夫が持ち出すことはなかったし、私からもなかったのだから。 ただの憂さ晴らしに夫が書いた離婚届。 ブラボ-! お陰でスムーズに独身になれたわよ? そして私は離婚届けを出したことを溝口さんと母に報告し、それから6ヵ月と少し過ぎた頃、私は溝口果歩になった。 ◇ ◇ ◇ ◇ そして十数年後、私は某スーパーとダイキのある駐車場で元夫と遭遇したのだった。 私には信頼のおける溝口啓太という愛すべき夫と、ずっと私を支えてきてくれた愛する母がいる。 そして碧が。 元夫も頑固一徹で、人の気持ちに添えない父親も、もうちっとも怖くないし、障壁でもない。 Come on! そんな気持ちで何やらしゃべり倒している元夫を、私は見ていたのである。 あんなに趣味のように浮気しまくっていた目の前の男は、着古した上着を着て、顔色の余り良くない風貌をしている。 そんな男は、何気なくすれ違っただけなら元夫とは気がつかなかったかもしれない。 今の夫が駆け寄って来た時、ふたりの差があまりに鮮明すぎて、元夫のことを思わず哀れんでしまったほど。 時は残酷なものなのだと思った。 こんなにもひとりの人間の風貌や雰囲気、生活感を変えてしまうものなのだと。 私は元夫にどんな風に映ったのだろう? 私もあの頃と比べたら老けているはずだから。 でも声をかけてきたってことは、全く別人とまでは変貌してないかな? 話合いの場を設けることになったけれど、さてさて──どんなことになるのやら、少しワクテカしている自分がいる。







